第06話    「鶴岡の釣具店」   平成24年12月31日  
 鶴岡では二昔、三昔前までは「昨日の勝負は如何でしたか?」と云う言葉が、親しい釣師の間では定番の挨拶となっていた。
 釣り好きと云ってもこの地方の釣り好きは、他の地方とまったくと云って良いほどレベルが異なる。鶴岡市民の釣り人口の比率が、他の地域の比べて非常に多い土地柄である。庄内の市町村もそんな傾向がある。よって社会に出て品物のセールスに行って相手が釣り好きであった日には、仕事などそっちのけで釣り談議に花が咲くのが普通である。なにせ男十人居れば、七〜八人は、馬鹿と名のつくほどの釣り好きと云う土地柄であるからである。
 当然釣具店も多い。従ってそれなりの歴史を持った釣具店が多い。中でも菅原釣具店(旧十日町)などは明治元年(一八六八)創業と古い店である。次いで大八木釣具店(旧十日町)、三浦釣具店(旧上肴町)、皆川釣具店(旧七軒町)など皆明治期に創業である。これらの店は、特別のコンロを使って鶴岡特有の焼鈎を作っていた。

 鶴岡の焼鈎は幕末の頃黒鯛を釣るに焼きの甘い既製品に飽き足らず陶山槁木が、大枚を支払い会得したものにを土台に、更に苦心の上完成を見た焼鉤の法を弟で庄内竿の完成者として知られる竿師陶山運平に伝授した。その後その焼鉤の法は陶山運平によって弟子中村吉次に伝えたと云われている。
 強くて丈夫な焼鉤の良さを知った鶴岡の釣具店たちは、不良品の多い鈎に飽き足らず各自が焼鉤の法を研究し、後に鶴岡鉤として知られる鈎を販売するようになった。その後これらの鈎の総称を鶴岡鈎と云い、明治、大正、昭和に至る長い間販売されていた。
 鶴岡は釣り人口が多かったから、餌を売るのはエビやと称する店から購入する。鶴岡は庄内竿の発祥の地である。竿は自分が精魂傾けて作るものではあったが、大衆化すると竿を作る事が出来ぬ者が増えて来る。時代の要請は釣具屋自身が作って販売する者が出て来てもおかしくはない。鶴岡市本町一丁目の菅原釣具店の主人菅原健三郎(一九〇一年明治三十四年)は当時竿師として有名だった竿師上林義勝に師事し、竿を作り販売したのが釣具屋での大量販売の始まりだったようだ。
 本間祐介氏の書いた資料によれば、昭和初期の山内善作から聞いたと云う話がある。或る年名竿師と知られる上林義勝と釣具屋の親父が河北(最上川の北)に竹採りに来たという。上林義勝が採ったのは僅か二十六本なのに対して釣具屋の取ったのは、なんと三千本だったという。その三千本の中には見るべき竹は一本もなかったと云うからその店で販売されたのは粗製濫造の竿であることは明白であった。